2026年9月10日

――90歳のMさんが教えてくれたこと
実際の訪問歯科の経験をもとに、「食べること」と「家に帰ること」が、その人らしい時間を取り戻すきっかけになった症例としてまとめます。個人が特定されないよう、細部は一般化した表現にしています。
「もう一度、家に連れて帰ってきたいんです。」
そう話してくださったのは、90歳になるMさんの娘さんでした。
Mさんは、多少の認知機能の低下はあったものの、それまで元気にご自宅で暮らしていました。家族に囲まれ、住み慣れた家で、いつもの生活を送っていたのです。
ところが、新型コロナウイルス感染症をきっかけに、大きく状況が変わりました。
感染後、体力ががくっと落ち、ベッドで過ごす時間が増えていきました。自分で動くことが難しくなり、やがて寝たきりに。
そして、その後に誤嚥性肺炎を発症し、入院することになりました。
入院するたびに、できることが減っていく
高齢の方にとって、病気そのものだけでなく、「入院生活」そのものが身体機能を大きく変えてしまうことがあります。
それまで歩いていた人が、ベッドで過ごす時間が増える。
人と話す機会が減る。
食事をする機会が減る。
そして、食べることを一度中止すると、再び口から食べるためには大きな力が必要になります。
Mさんも、入院後、少しずつ体力が落ちていきました。
誤嚥性肺炎を繰り返すことへの心配もあり、口から食べることが難しい状況になっていました。
ご家族には、
「看取りが近いかもしれません」
という話もあったそうです。
娘さんは悩んでいました。
このまま病院に入院したままであれば、口から食べることができないまま、時間が過ぎてしまうかもしれない。
でも、本当にそれでいいのだろうか。
そして、娘さんが口にしたのが、
「最後は家に連れて帰ってきて、口から食べさせたい」
という想いでした。
「食べさせたい」は、単に栄養を摂らせたいということではない
私たちは、「食べる」という行為を、つい栄養を摂るためのものとして考えてしまいます。
もちろん、食事には栄養や水分を補給するという大切な役割があります。
しかし、それだけではありません。
好きなものを食べる。
「おいしいね」と話す。
家族と一緒に食卓を囲む。
季節を感じる。
昔から好きだった味を思い出す。
そして何より、「自分の口で食べる」ということそのものが、その人らしく生きることにつながっている場合があります。
娘さんが望んでいたのも、単にMさんに栄養をつけてもらいたいということだけではなかったのだと思います。
「最後の時間を、できるだけ家で過ごしてほしい。」
「できるなら、もう一度口から食べてほしい。」
その想いでした。
主治医に相談し、「家に帰る」という選択肢へ
ちょうどその頃、病棟の主治医の先生が以前から知っている先生だったこともあり、Mさんのことについて相談する機会がありました。
今の状態で自宅に帰ることができるのか。
帰った後、どのように過ごすのか。
食事はどうするのか。
誤嚥のリスクはどう考えるのか。
そして、最期の時間をどのように支えていくのか。
医師、ご家族、在宅医療・介護に関わるスタッフなど、さまざまな人が相談しながら、Mさんはご自宅へ帰ることになりました。
「在宅で看取る」という選択です。
もちろん、簡単な決断ではありません。
自宅に帰れば、医療や介護を家族が担う部分も増えます。
食事をすれば、誤嚥のリスクもあります。
ご家族には不安もあったと思います。
それでも娘さんは、
「家に連れて帰りたい」
という想いを選びました。
帰宅して最初に食べたもの
Mさんが家に帰ってきて、私たちが関わらせていただくことになりました。
そして、Mさんが口にしたもの。
それは、プリンでした。
一口、また一口。
Mさんはプリンを食べました。
そして、
「おいしい」
と話してくれました。
その言葉を聞いた娘さんの目には、涙が浮かんでいました。
それは、病院ではなかなか見ることのできなかったMさんの姿だったのかもしれません。
「食べられた。」
「おいしいと言ってくれた。」
たった一口のプリン。
けれど、その一口には、とても大きな意味がありました。
そこから、少しずつ時間が動き始めた
帰宅当初は、いつ亡くなってもおかしくない状態だと考えられていました。
「今週を越えられるかどうか」
そんなことも考えなければならないほどでした。
ところが、家に帰ってから、Mさんの状態は一時的に少しずつ良くなっていきました。
もちろん、病気が治ったわけではありません。
体力が以前のように戻ったわけでもありません。
それでも、表情が変わりました。
家族と話をする。
周囲の人と会話をする。
そして、家で一緒に暮らしている犬を撫でる。
ペースト状にした食事を、少しずつ口から食べる。
そんな時間が生まれていきました。
病院では「もう難しいかもしれない」と思われていたことが、家に帰ることで少しずつできるようになったのです。
「食べる」は、生活の一部
摂食嚥下に関わる仕事をしていると、食べることについて「安全か、危険か」という視点で考える場面がたくさんあります。
もちろん、安全に食べることは大切です。
誤嚥性肺炎を繰り返さないために、嚥下機能を評価し、姿勢や食形態を調整し、必要な訓練や口腔ケアを行う。
こうした取り組みはとても重要です。
一方で、「誤嚥のリスクがあるから食べない」という判断だけでは、その人の生活全体を見ることができない場合もあります。
特に人生の最終段階では、
「どこまで安全にできるか」
だけではなく、
「本人は何を望んでいるのか」
「家族はどんな時間を一緒に過ごしたいのか」
「その人にとって、食べることにはどんな意味があるのか」
を考えることが大切になります。
Mさんの場合、プリンを食べることは、単なる食事ではありませんでした。
「おいしい」と感じる。
それを家族がそばで見ている。
家で犬を撫でる。
会話をする。
そうした一つひとつの出来事が、Mさんの「暮らし」そのものだったのだと思います。
最期まで「食べる」を支えるということ
Mさんがご自宅に戻ってから、およそ1か月半。
その時間の中で、さまざまなことがありました。
当初は、帰宅したその週のうちに亡くなってもおかしくないと思われていたMさん。
それが、1か月、そして1か月半。
家族と話し、犬を撫で、食事をし、自宅で過ごしました。
そして、最期はご家族に見守られながら旅立たれました。
娘さんは後になって、
「大変だったけれど、家に連れて帰ってきてよかった」
と話してくださいました。
この言葉が、今でも心に残っています。
医療には「治す」だけではない役割がある
医療というと、「病気を治すこと」を思い浮かべる方が多いと思います。
もちろん、それは医療の大切な役割です。
しかし、すべての病気を治せるわけではありません。
年齢を重ね、体力が低下し、人生の最終段階を迎えたとき。
そのとき医療に求められるのは、「少しでも長く生きてもらうこと」だけではないのかもしれません。
「どこで過ごしたいのか。」
「誰と過ごしたいのか。」
「何を大切にしたいのか。」
その人らしい時間をどう支えるか。
そこにも、医療の大切な役割があります。
そして、「食べる」ということは、その人らしい生活を支える大きな柱の一つです。
「食べられるようにする」だけが、食支援ではない
私たち歯科医療者は、摂食嚥下機能を評価し、少しでも安全に食べられる方法を考えます。
姿勢を整える。
食事の形態を工夫する。
一口量を調整する。
口腔内を清潔に保つ。
必要に応じて嚥下内視鏡検査(VE)などを行い、飲み込みの状態を確認する。
こうしたことは、もちろん大切です。
でも、食支援はそれだけではありません。
「何を食べたいですか?」
「どこで食べたいですか?」
「誰と食べたいですか?」
「その人にとって、食べることはどんな意味がありますか?」
そこまで考えて初めて、「その人のための食支援」になるのではないでしょうか。
Mさんの場合、それは「家に帰ること」から始まりました。
そして、最初の一口のプリンから始まりました。
「ごはんがたのしみ」な時間を、最後まで
Mさんが亡くなられてから、私たちは改めて考えました。
もし、あのまま病院に入院していたら。
もし、「誤嚥のリスクがあるから」という理由だけで、最後まで食べることを諦めていたら。
もちろん、実際にその選択をした場合の未来を知ることはできません。
だからこそ、何が正解だったのかを簡単に決めることもできません。
けれど、Mさんと娘さんが選んだ「家に帰る」という道の中には、確かにたくさんの時間がありました。
「おいしい」と言ったこと。
娘さんと話したこと。
犬を撫でたこと。
ペースト食を食べたこと。
家の空気を感じたこと。
それらは、数字や検査結果だけでは表すことのできない、大切な時間です。
私たちが目指しているのは、ただ「歯を治す」ことだけではありません。
口から食べることを支え、その人がその人らしく暮らすことを支える。
そして、
「ごはんがたのしみ」
と思える時間を、できるだけ長く、できるだけその人らしく。
たとえ食べられる量が少なくても。
たとえ食べられるものが限られていても。
一口のプリンが、その人と家族にとって大切な一口になることがあります。
Mさんが教えてくれたのは、そんな「食べること」の大切さでした。
そして、もう一つ。
医療は、人生の最後に「できないこと」を数えるだけではなく、
「残された時間で、何ができるだろう」
を一緒に考えることもできる。
そんなことを、Mさんとご家族から教えていただいたように思います。
たのしみ歯科は、これからも歯科医療を通して、「食べる」と「暮らす」を支えていきたいと思います。
ごはんがたのしみな毎日を、あなたと。
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