2026年6月25日

訪問歯科診療を続けていると、多くの方との出会いがあります。
その中には、数年のお付き合いになる方もいらっしゃいます。診療という枠を超え、その方の人生や暮らしに寄り添わせていただく中で、私たち自身が多くのことを学び、励まされることがあります。
今回は、先日、旅立たれたIさんとの思い出を書いてみたいと思います。
【出会いは入れ歯の調整から】
Iさんとの出会いは、ご自宅への訪問診療でした。
当時は入れ歯の不具合があり、調整のために伺うことになりました。
しかし、最初から順調だったわけではありません。
Iさんはとても慎重な性格で、初対面の私たちに対して警戒心を持っておられました。
お口を見せていただくことも簡単ではなく、入れ歯を調整するために触れさせていただくにも時間がかかりました。
訪問歯科では、このようなことは決して珍しくありません。
突然やってきた医療者に心を開くことは簡単ではありませんし、自宅という大切な生活の場に入る以上、信頼関係が何より大切です。
私たちは無理に治療を進めるのではなく、まずはお話をしながら少しずつ関係を築いていきました。
何度も訪問するうちに、少しずつ笑顔が見られるようになり、入れ歯の調整も受け入れてくださるようになりました。
振り返ると、その時間こそが訪問歯科の大切な仕事だったのかもしれません。
【博学で多才なIさん】
Iさんは本当に博学な方でした。
歴史の話、文学の話、昔の暮らしの話。
こちらが何気なく話題にしたことでも、詳しく説明してくださることが多く、私たちの方が勉強になることもしばしばありました。
診療に伺うたびに新しい話が聞けるため、スタッフもIさんとの会話を楽しみにしていました。
また、絵を描くことがお好きで、昔描いた作品を見せていただくこともありました。
細かなところまで丁寧に描かれた絵からは、Iさんの豊かな感性が伝わってきました。
さらに印象的だったのは、ウクレレです。
娘さんと一緒に練習されており、訪問の日には演奏を聞かせてくださることもありました。
いつしか診療が終わった後に、みんなで歌を歌ったり、演奏を聴いたりすることが恒例になりました。
歯科の診療というより、音楽を楽しむ時間だったかもしれません。
もちろん私たちは治療や口腔ケアのために伺っています。
それでも、その方の好きなことや大切にしていることを共有できる時間は、何ものにも代えがたいものです。
Iさんにとっても、私たちにとっても、ウクレレの時間は特別な時間でした。
【少しずつ変化していく暮らし】
年齢を重ねるにつれ、Iさんの体力は徐々に低下していきました。
以前は元気に話をされていたのが、少しずつ疲れやすくなり、外出も難しくなっていきました。
それでもご自宅での暮らしを続けておられました。
しかし、やがてご家族だけで支えることが難しくなり、施設へ入所されることになりました。
長く関わってきた私たちにとっても、大きな節目でした。
住む場所が変わることは、ご本人にとってもご家族にとっても大きな出来事です。
慣れ親しんだ家を離れる不安や寂しさは、私たちには想像しきれないものがあります。
施設入所後も、私たちは引き続き訪問歯科として関わらせていただきました。
場所は変わっても、IさんはIさんです。
これまで築いてきた関係を大切にしながら、口腔ケアや入れ歯の調整を続けていきました。
【「ふるさと」を歌った日】
施設での生活が長くなるにつれ、Iさんの身体機能はさらに低下していきました。
以前のように長く会話をすることは難しくなり、眠っている時間も増えていきました。
傾眠傾向が強くなり、一緒に歌を歌うことも少なくなりました。
それでも私たちは、診療のたびに声をかけ続けました。
ある日のことです。
口腔ケアを終えた後、歌の上手なスタッフがウクレレでIさんがよく練習されていた「ふるさと」を弾き始めました。
「うさぎ追いし かの山…」
静かな施設の一室に、やさしい歌声が響きました。
Iさんは目を閉じていましたが、表情がふっとやわらいだように見えました。
わずかな反応だったかもしれません。
けれど私たちには、その時間を喜んでくださっているように感じられました。
音楽には不思議な力があります。
言葉が難しくなっても、記憶が薄れても、心の奥に残っているものがあります。
長年親しんだ歌は、その人らしさや人生の思い出につながっています。
その時間は、私たちにとっても忘れられないひとときになりました。
【最後まで関わるということ】
先日、Iさんはご逝去されました。
訃報を伺ったときは寂しさがありました。
長い間関わらせていただいた方との別れは、何度経験しても慣れるものではありません。
一方で、最後まで関わらせていただけたことへの感謝の気持ちもありました。
訪問歯科は、虫歯や入れ歯だけを診る仕事ではありません。
その方がどのように暮らし、何を大切にし、どのような人生を歩んできたのかに触れる仕事でもあります。
Iさんとの時間の中で、私たちはたくさんのことを教えていただきました。
博学で、絵が上手で、音楽を愛し、ご家族との時間を大切にされていたIさん。
そして、ウクレレと「ふるさと」の思い出。
私たちの記憶の中に、これからも残り続けることでしょう。
訪問歯科の現場では、治療の成果だけでは測れない価値があります。
信頼関係を築く時間。
一緒に笑う時間。
その方らしさに触れる時間。
そして人生の最終段階まで寄り添う時間です。
Iさんとの出会いは、私たちに「最後まで関わることの大切さ」を改めて教えてくださいました。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
そして、長い間本当にありがとうございました。
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